昭和45年11月10日 月次祭



 教祖の神様は私共の信心をさせて頂く者をとりわけ信者氏子とお呼びになって居られます。世界中の氏子、これは天地の親神様のまあ氏子で御座います。同時に私共は金光大神の信者氏子でなからなければならない。信者ではあるけれども氏子とまではいかない、天地の親神様の氏子ではあるけれども信者ではない、それではいけんのです。信者氏子として呼ばれれるだけの信心を頂かなければならない。
 私は今晩この事を初めて皆さんに聞いて頂いて居る訳ですけれども、例えば合楽教会に御神縁を頂いてお参り致して居りますと、云えばやはり信者であると同時に信者氏子だとまあ思うとりますけれども、教祖の神様は只信者と云うだけで氏子とまでは仰ってないかも分からない。信者氏子と云うのはね、云うならば親子と云う事なんです。信者であると云う事だけではなくて親子と云う事。ね、
 世界中の氏子とこう、やはり神様のまあ御子だと云う事ですけれども、神のいとし子でありますけれども、氏子がそれを自覚し無かったら、もうそれは親子じゃないのです。ね、いくら私が親だと云うてもお前の様な親を持った事はないと子供が云うならそれまで。ですからやはり親が氏子と呼びかけるならやはり子供の方も、お父さんでありお母さんであるとそれを自覚が出来る。
 ほんとの親子としての自覚が出来る。それを私は初めて信者氏子とお呼びして下さる内容を持ったいわゆる信者氏子だと云う事になるのだと思うのです。ですからこれは親子の事で御座いますからね、夫婦ならば別れりゃ他人と云う事もあるけれど親子と云う事はいくら切っても切っても切れんのが親子なのです。ね、だからいくら切ってもいくら切っても例えば繋がって居ると云う程しの信心信者であって初めて教祖の神様は信者氏子とお呼び下さるのだと云う事を今日私気付かせて頂いた。ね、
 先日から或方がまだ此処では信心さほどは永くは無いのですけれども、恐らく私は一生ね合楽の信心を離れては立ち行かない、離れることはないだろうとこう言われたと云うのです。自分でも又それを、それはんなら良い事ばかりがあるから、又お願いをしておかげばかりと頂いて居るから言うて居られるのではなくて、実を云うたら大変難儀な中にあって困った中にあって次々と難儀に出合われる度んびにです、その思いが強うなって来ると云うのですね。
 それがね、私は信者氏子だと云う事に成るんじゃないかと。ね、あすこでおかげを頂ききらんと何処もあるもじゃからと何々様でいかん時は観音様があるんだからと云う様なね、信心ではだから信者氏子と云う事ではないと云う事。信者氏子とわざわざ重ねてお呼びかけ下さるのはもう間違いのない氏子私とお前がいわば血を以って繋がって居る様にです、ね、切っても切れない仲になったと云う時に信者氏子としてのお取扱が頂けるんだと云う風に思うんです。
 そこでお互いがです、ね、お願いをするおかげを頂き有り難い有り難い、み教えを頂く度んびに、本当に身に付く様に血に肉に成るごとあると云うて、まあお参りをさせて頂いて居りましても、何かの拍子に冷え冷えと冷うなって行く人があります。本当に何年前に、早よう合楽にお参りしよったけど、この頃はもうちっと御無礼してと云う人もあります。だからそれは一時はね、信者ではあったけれども。
 もう信者氏子では無いと云う事になる。ね、信心信者氏子と云うと私共が本当に信者氏子にお取立の頂けれる信心を身に付けて行きたいと思います。まあ内容に触れられませんけれども今日私が或方のお取次させて頂いた時に、難儀な問題が起きている。けれども先生おかげを頂きまして信心頂いて居りますおかげでです、ね、ほんとにそれをまあ有難くとまでは頂けぬけれども神様の御都合だとは思います。
 同時に又神様がよりおかげを下さろうとして居る御神意を、での事である事も分かります。だから此処を頂き抜かせて頂いたら恐らく、これがおかげになる事だろうと思いますと信心に弾みが付くと云うてお届があって居りましたがね。私はこれをそのお取次さして貰いよりましたらね、三味線を弾きよる所を頂く。ね、そしてそのこうバチをこうね、三筋の糸に当てます。
 これをチャッチャッとこのツボ々をいわゆる感どころを抑えて居る所に良い音色がサァッサァッと出て居る様な雰囲気を頂くんです。成程なあと私は思うた。これは云うなら三味線のバチはいわゆるバチ、バチはわたしはお道ではどう云う事になりましょうかねえ、お気付きとでも申しましょうか。お気付を頂く。それがどうでしょう、お気付きを頂いたらお気付きを頂いたとジャンジャンやかましいだけでしょう。ね。
 感どころを抑え無かったら変な音が出るだけです。 
 所がそのバチが当たった瞬間にもピシャッといかにも良かツボを抑える事が出来とる。ね、でそのお気付いわゆるバチが当たると、当たった時にはもうむしろそのお気付きを頂いたからこそ良い音色がずうっとこう響いて居る。はあこの人こそ信者氏子だなと私は思いました。ね、私しゃね信者氏子と云うのはそう云う信心を頂いて行きよるそう云う信心を身に付けて行きよる人だと私は思います。
 信心しよるとにどうしてこげな事が起こりよるじゃろうかとか、ね、信心をして居ってと例えば、神様を恨む様な、考え方の人が何十年例えばお参りして居っても、成る程信者ではあるかも知れんけれども、教祖様はそれを信者氏子とはよもやお呼びにはなるまいと私は思うた。皆さんどうでしょうか。それがねどうしてその様な事が言えるかと云うと、先程前講を突然町田さんにと云うてまあ末永さんが指名をしたそうですからまあその目の玉に指突っ込む様に言われて、まあ此処に立たれました。
 まあ町田さんだからあれだけのお話が出来たんですけれど、内容は持っとってもなかなかお話は出来るもんじゃないですもんね。けれども自分が今実感して居る事、今日も昼お参りになって今北九州の方へ勤めの都合で行って居ります。今日お礼参拝をさして頂かれてからです、親先生、親先生の仰る通りにして居ればおかげが頂かれると云う事を度々の事柄の中からおかげを頂くと。
 人間関係で大変悩みを持ってもうこの頃から止めようかと云うてお届けに見えた時にまあ一辛抱しなさいと辛抱して居られたらです、その人間関係の対照になって居られた方がですねえ何かの都合でその社をお止めにならなきゃあならない様なことになって来た。と云う様なですねもうほんとに降って湧いた様なおかげをそこに、成程先生が辛抱しとけと仰ったが成程辛抱させて頂いて良かったと云うそう云うおかげがです、ね、今日の町田さんのお話の中から頂くならばで。、
 何気なく過ごさせて頂いて居る事の中にとこう言うて居られます。何気なく過ごさせて頂いて居る中に天地の親神様の働きが親先生金光大神のお取次に依ってあいよかけよの働きがそこに起ると云うて居られます。私素晴らしい言葉だと思うです。ね、こちらはさほどそう何時もかつも金光様金光様と言うて金光様に向かうている訳じゃないけれども、何気ない働きの中にです生神金光大神御取次の働きと云うものがです、ね、
  しかもそこにあいよかけよの働きの中におかげを受けて居る事の実感が合楽に御縁を頂いて居って良かったなあと信心を頂いて居って有難いと云う実感の中に日日過ごしておると云う事です。ですからね、良しに付け悪しきに付け例えば起きて来るその事柄がです神様の御神慮御神意の中にこの様に間違いのなく起きて来るんだと云う事をです把握して居られる。そこん所をしっかり握って居られる。
 ですからその事は例えば痛い事でもありましてもです、その事ははがゆい事でありましても、もう止めようかと思いましてもですとにかく御神意を頂いて親先生のお言葉次第にと云う腹が決まる。そう云う時にです今日もその事を言うて居られますね。私共そう云う時にそれを日田の綾部さんは口ごみどころと言われます。今日もそれと同んなじ様な意味の事を言うて居られましたから、はあ誰でも思うとる事は同じだなあと思うた。
 なんとかじゃあ、ね、そう云う時に走って行けれる所を持って居ると云う事が有難いと云う様な意味の事を今日秋永さんも言うて居られました。ね、そこから人間の運命がです幸不幸の分かれ道がある中を間違いなく進んで行けれると云う事が有難い。今日は美登里会の方達五・六名が久留米の幹三郎が今入院させて頂いて居ります医大の方へお見舞いに行って下さった。所が向こうは留守だったとこう云う。
 丁度その時間に家内と所謂親子で今日は一泊で外出を許されたとこう云う。次のまあ月曜当りが手術になるらしい。それでその前に一辺家に帰っておけと云う事だろうと思う。それで一泊のお許しを頂いて帰らせて頂いたのと皆さんがおい出られたとが丁度ごっつり合うた訳です。向こうからすぐ電話が掛って参りましてから又合楽の方へお見舞いに参りますからと云うて、まあ一時間ばっかりしたら皆さんこちらへ集まられました。
 此処その事のお届けをされます事の中に、今日はあちらの病室に入らせて頂きましてから私共だけではまああすこには絨毯が敷いてありますそうです、私は一辺も行ったことが無い。ありゃあもう実に殺風景なその病室ですからあの旅館に上がったと云った様な事ではありますまいけれど広いのはやっぱ十畳位あるらしいですねえ。そこにポツンと寝台があるだけのもう穏当に殺風景な所だったのですけれども。
 皆さんが毎日毎日お見舞いにおい出られては花を持って行き活ける道具など持って行って下さったりして今朝などはカラーテレビのお供えも頂いた。それを取り付けに来て下さった。もう本当にもうこげな事しよるなら幹三郎は帰ろうごとなかと言い出しゃせんかと云うごとそのまあ部屋の中が綺麗になっとるとこう云うのです。今日も皆さん帰って来なさって暫く此処に居ったとこう云われる。
 私はそれを聞かせて頂いておって、もし私がその病室に座ったら私ならどう云う話をしたりどう云う風な事を感じるだろうかとふっと自分の心の中に思うた。もう何十年も経った病院で御座いますからね、もう本当にまあ云うならば、屋敷の所もあるらしいですよね、浦の方へ回りますと、古い建物ですから。例えばそれがまあ一番個室の良い部屋ではありましてもそれこそ、何十年の間には此処の部屋でですね。
 大変な病人さんが此処に横たわってそれこそ断末魔のうめき声を上げながら亡くなって行った人も沢山あろうこの部屋で。とにかく病気の苦しみにそれこそ絶えられない様な苦しみでです此処でいわば苦しみ抜かれた病人さんがその幹三郎が入らせて頂いとるその前の事がこの部屋ではどの位いどの様なそんな苦しい事がこの部屋で起こったか分からないと云う程しのです事なんです。
 普通のお家ならですね目出たい事もありゃいろんな事なんです楽しいこともあるけども病室ですからそんな事はない。そりゃもう隣近所はみんな面会謝絶の札が掛かって居ると云われる。そう云う状態の病人さん達が今までつい何日前までか居られたに違いない。そう云う例えば人間の苦しみがこの部屋の中に籠もって居ったに違いない。ほんとにこの部屋でも云うならば神様のおかげを頂いてあの大ふさを持って行って祓い清めでもしてから入らにゃ居られん様なものを私は感じるだろうとちょっと思うた。
 そこに座ってから、その部屋の中のまあ云うなら、大変な人達が苦しみの声をそこに聞く様な思いをした。そしたら間発を入れず神様が、私にお知らせ下さった事はね、あの入院の時の事のお知らせを頂いた。神乍に入院と云う事になり、神乍に何日と云う事になり、そのその日までは、云うなら何と云うですか、三人も四人も一緒に部屋に居られますそう云う相部屋しかなかった。
 所がその日こちらが入院させて頂くと云う日にその部屋が開いた。ああもう富永さんお宅の御親戚の方はふが良かったですよと云うてから富永さん親戚に当たるですからね、富永先生だからそう言われたと云うんです。ほんとにふが良かったんです。そりゃ何と神様の働きの間違いの無いこと。もう私は今朝午前中御用に行かせて頂いてその一時だけでもこう云うお取り計らいの中に幹三郎ちゃんが入院されるんだと思うたら感激して御用させて頂いたと帰って云うて居られます。
 と云う様なですそう云う神様のそう云う云うならば一分一厘間違いの無い働きの中にです入院、一分一厘間違いの無い働きの中にこのお祓。ね、そう云う神様の働きがです強力にそこにあると云う事がこれはお祓い以上のお祓いであるぞと云うお知らせを頂いて有難いなあと思うた。成程信者氏子と信者と又は氏子との違いをその様に私は今日感じた。有難いね、信者氏子。ね、
 又は信者又は氏子と、成程世界中の氏子におかげをやってあると仰せられるのが天地の親神様のお働きであり又そう云う見方を又事実神の氏子なんだけれど、その自覚が無いなら人間の場合はもう氏子としての働きをそこに遮断してしまう。謝絶してしまう訳です。例えばそう云う一分一厘間違いの無い働きの中に起きて来る事であるからその事は痛い事であっても痒い事であってもね。
 どんな事であってもその神様の働きの中にあるのだと分からせて頂く時にです、ね、私はどの様な場合であってもきちっとこうツボが抑えられる私はおかげとはそう云う事ではなかろうかと思う。ね、どんなにお気付がいわばそれこそバチがジャンジャン云うごとこれに当たれば当たる程この賑やこうなって来る訳。ちょいとこう云うお気付き頂きよるが先には神様どげなおかげば下さると思いござるじゃろかと云うごたる風でもう人押しごたる気分で心がウキウキして来る訳なんです。
 そうでしょう、所が、さあこちらの方が動かんでですねどうして俺の方ばっかりバチ被らんならんじゃろうかと云う時にはもうそれこそそりゃもう何と云うですかねえ、雑音と云うか雑言と云うでしょうか、もうそれこそ煩わしゅうていや難儀で難儀で答えん世の中に苦しみはもう私が一人でかろうちょると云う思いがするとじゃなかろうか。ね、信心はだから此処の所を常日頃に稽古しとかにゃ駄目だと云う事。
 云うなら三味線の稽古と同じ事。私共がやっぱ少しばかりは弾ききるけん、それをさ何処ば抑えにゃいけん今度はどげな風、此処ばこうやってこっちばこげな風に弾こうちゅうたごたる風でもう間に合わん。こっちはもうバチが当たった時にさあっと此処に来とかにゃいかん。それにこげやって見る事もある。自分の感でしよる。ね、その感で良い音色が出る様なもんです。ね、そう云う信心を身に付けた私は人達こそがです、
 教祖の神様が信者氏子と呼びかけて下さるね、こう云う事になって来るとき良い事悪い事は別として、とても切ろうとして切れれる事になって来るのです。そう云う信心をね、お互い一つ目指して行きたい。今朝からの御理解の中にね、人間と身代と健康と三代続いたらそれが神の気感に適うた氏子じゃとね、あの御教えが御理解が御座います。それには神の大恩を分からなきゃならん。
 神のおかげをおかげと知らなければならない。そこにはね、年勝り代勝りのおかげが受けられると云う御理解でしたね。お互いが年勝り代勝りのおかげを頂かせて貰うそう云う例えば信心がです。ね、今日もああして沢山子供達が参って来とる。何も分からんなりにあっち走りこっち走りしてもうこげな邪魔になるとなら連れちゃ参るまいと思うごたるけれどもやっぱ連れて参って来る。ね、それがおかげなんです。ね、
 それがね例えば聞きよらんごとあるばってん心の耳で聞きよる。神様が聞かせござる。それが何時の間にかです信心とはこう云うものだ、信心とはこう、家では信心がなからなければ内は立ち行かんのだと云う思い込みが出来て来る。私の子供の時がそうだった。もう大坪の家と云うものは神様のおかげを頂かなければ立ち行かないお家なのだと何時の間にか思い込んで仕舞う。
 別に母親が信心教育をした訳じゃないけれども只自分のその子供に懸ける願いと云うものがね、只私の信心を受け継いで呉ます様にと云った様なものではないだろうけれどもして居る事と言うて居る事がです、いつの間にか自分自身、私自身の上に信心が伝わって来た。そうしてですそう云う事が琢磨ずしてね、何時の間にかね、町田さんのお言葉を借りるとね、何気無い働きの中に子供が信心になって行って居ると云う事。親と子と孫と三代信心がそう云う意味に於て続いたら神の気感に適うた氏子じゃと云う所にです。
 今日私何時もこう、何時も大変難しゅう頂く事なんです、所なんですけれども合楽ではおかげ頂いとるなあと神の気感に適うた氏子がもうずらりじゃないか、朝の御祈念に参って来とられるづらりと参っとられる方達が皆そうじゃあないか。久富さんが並んで居られた、堤さんが並んで居られた。そこに秋山さんが居られた
 。それで三人の名前を言うて久富さんにしたところでほうら爺がお参りして来りゃ子供達嫁御達までがお参りをして来る。孫も朝連れて参って来る。秋山さんに於てしかり、堤さんに於てしかり。いわばなら朝の御祈念にお参りする程の人ならばみんなそれがいつの間にか何気ない信心の働きの神様の働きの中にそれこそあいよかけよの働きがその様にして家庭の中に染み込んで行きよると言う事だ。
 神の気感に適うたと氏子だと云う事に成るのです。神の気感に適うた氏子に成ればお金に不自由をしないとか、何時もまめで達者と云う様にまめでと云う言葉をお使いに成っとるがずうっとそんなに神の気感に適うたらその病気をしないと云う事では無いと云う事。ね、例えそんならもうその大の手本が金光教では御座いませんけれどもね。三代金光様の奥様は金光様の所へご縁に行かれる所からお亡くなりに成るまで胸の病気をお持ちになっとったんですから。
 それでも一日のやっぱり御用には使うて頂いたと言って居られます。まあ今の四代金光様は真にお話中に恐れ入りますけれども昨日御本部からお手紙を頂きましてね金光様が御退院になったと云うお通知を受けました。どうぞもう謹んで神様にお礼を申させて頂いて居る訳で御座います、皆さんもどうぞ。まあお家で大体ご養生はなさいますそうですけれどもね。退院のおかげを頂かれていつもの様に朝から夜までの御神勤があって居ると云うお通知を頂きました。ね、
 と云う様に例えんなら教祖様ですらがそうなんだもの、なら金光教は神の気感に適うとらんかとそうじゃあない。だから私は本当に神の気感に適うたと云うのは何時の間にか何とはなしにその有難い信心が親から子に孫に伝うて行きよると云う雰囲気なのだと、ね、しかもさあどう云う時でもです、ね、駆け込み所を持って居る、いよいよの時には合楽に走って行けば良いと云う様な。いわば安心した心で日日の生活が出来て居ると云う事は何と有難い事であろうか。
 合楽ではこの事の例えば数えるならばもう合楽で一番すばらしい事はこれなんです。ね、爺達夫婦が参るならば嫁達息子達ももう参りよる、孫も参りよると云うのがこれ合楽の信心と云うて良い位なんです。これは素晴らしい事。ね、だけではないもう嫁に行った先の家族までが信心しとる。ね、嫁に貰うた嫁の里までが信心に成って来ると云う様な有難い事になって行きよると云う事がね。
 神の気感に適うた信者でなくて何であろうかと。神の気感に適うた信者だからこそそれなんだ。そして今日私が申します様に信者氏子としての云うなら内容をいよいよ頂かせて頂いて居ると云う事が、ね、私合楽の強みだと思うとります。今日改めて私信者氏子と云う事がね、これはもう切っても切れぬ中だと云う事なのです。ね、自分自身の信心に問うてみてそこまでの信心にお育てを頂かせて頂いていよいよね。
 全ての事が有難く頂かれるね、云うならば今日三味線の例で申しますね、どんなならお気付きを頂いても、きちっとそのもう間発を入れず感所を抑えられて良い音色の出る様なおかげを頂かせて頂いてからもういよいよ又辞めもされませんが神様もそう云う氏子の上に信者氏子と云う思いをね、そう云う思いを込めて私共の上にお働きを下さる事を感じ確信致しましたですね。
 どうぞ皆さん一ついよいよ合楽全体がです、ね、信者氏子としてのおかげを頂いて居る。だからこそ例えば今初めて合楽からなら病院入院と云った様なことになったらもうそれこそ油に火を付けた様な感じでしょうが。ね、パアーッと燃え上がって来る。ね、そして幹三郎様御病気御平癒祈願とね。昨日そう云う話をした事ですけれどね、あのう末永さんが修行生一同で幹三郎君と云うお届けがあるんです。
 所が色々考えさせて頂きよったらこりゃもう普通では幹三郎君幹三郎君ち云いよったけんまあ幹三郎君でお届けしよったけれどようと考えさせて頂きよったら先生幹三郎君のおかげで今まで出来なかった信心が出来今まで出来なかった改まりが出来るので御座いますから、こりゃあ皆さんが書かれる様に幹三郎様でなきゃいかんと気が付きましたから明日から幹三郎様でお取次をさしてお願いをしますとこう云う。
 ほんなこてね、幹三郎様々だねと云うて話した事でした。ね、そのおかげで日頃出来なかった信心がいわゆる今月の信心の焦点である所のね、一心の真を捧げてのお願いになれれると云う事が有難い。しかもいわば教会の三男坊である幹三郎ではない、これは合楽教会を愛するが故の教会愛がその様な大きな勢信心の姿になって居るんだと私は信じとります。ね、何故その様な教会愛がですね生まれるかと云うと。
 お互いがね信者氏子としてのおかげを頂いて居る。親も子も孫もです神の気感に適うた信心をさして頂いて居るから云うならばこれは神様との繋がりが親子であるならば横の繋がりはもう兄弟であるからこそ、そういう様な私は真に迫る程しの御祈念とかね、一心の真を捧げて願わなければ居られないと云う信心が、具体化してくる事になるのじゃないかと云う風に思うので御座います。ね、
 成程有難いな、神様と私共との中にはねいわゆる信者氏子としての切っても切れぬ仲と云うものがいよいよ強く流れて行きよる。ですから横にさあ何かと云う時にはその横の繋がりがバアッと一つに燃え上がって行けれると云う事はこれは本当に改めてお礼を申し上げなければばならんと云う風に思わせて頂きます。
   どうぞ。